遠隔画像診断の起業

遠隔画像診断の歴史

歴史的背景

 

 遠隔画像診断の歴史は大まかに言って

 

  1. 研究的段階
  2. 離島対策(保険適応)
  3. 企業の参入(保険外、商用)
  4. 個人医師レベルの参入
  5. 大学の参入

 

という段階を経てきたと思われます。

 

 私は1の段階から近くで見ていたのですが、多少皮肉を交えて解説します。

 

研究的段階

 日本経済が躍進し、使い道に困ったお金があふれていた時代のこと、大学や自治体などが離島や僻村を対象に行う遠隔画像診断を模索しました。

 

 実際の離島や僻村の診療所のほか、実験サイトとなる大病院との間にも専用回線などが引かれて行われました。

 

 あくまで試験的であり、自治体などからの予算がつかなくなると放棄されました。

 

 巨額の投資はほとんどシステム会社と通信会社に渡って消え、場合によっては 10例に満たないうちに放棄されたところもあります。

 

 読影医への報酬はゼロ。
 毎月の高額な通信料が払えなくなると中止。

 

 今でもだいたいの国立大学の倉庫の中にこの残骸(端末)が眠っているようです。

 

公的遠隔画像診断(離島対策)

 保険点数がつくかつかないかの時期から、実際に実用的に行われてきた例もあります。

 

 当時は回線の費用問題が大きかったようですが、人命尊重の建前のもと、月 15万円以上の専用回線を引いても住民のために行われていました。

 

企業の参入(保険外、商用)

 商用レベルの遠隔画像診断事業は関東で始まりました。
 関東では内科、外科などのメジャー科の力が強く、放射線診断は自分たちでやるもので、放射線科医は不要と思っている病院(院長は内科医か外科医がほとんど)が多く、放射線科医を雇う病院は少なかったという土壌がありました。

 

 しかし、CTやMRIなどの高度な画像診断装置が発達し、画像診断学の驚異的な発展により、とても画像診断まで内科医や外科医が自分でやる余裕がなくなってきたのです。

 

 そこで、CT、MRI(当初はCTのみ) を専門に読む遠隔画像診断会社という存在が生まれました。
 データセンターを自分で運営し、システムを自分で作り、読影医を雇って診断を行うというもので、億単位のお金が必要でした。

 

 関西や他の地域では事情は多少異なります。

 

個人レベルの医師の参入

 インターネットを初めとする情報インフラの発達、低価格化により、個人でも遠隔画像診断が可能になり、放射線科医が独自で会社を作って参入するようになりました。

 

 必要なお金は数千万円から数百万円に下がり、現在では数万円レベルに下落しました。

 

大学の参入

 研修医制度が改革され、廉価な研修医を獲得できなくなった多くの大学病院は人手不足に陥り、配下の病院から医師を大学に引き戻しました。
 それでも人手不足なので、大学病院のスタッフのバイト(出張読影)を制限しました。

 

 医師を引き抜かれた関連病院に対する手当と、時間不足の大学病院スタッフの収入を確保する方策として、大学は遠隔画像診断に乗り出しました。

 

 全国的規模の改革ですから、今まで読影医を送られていた病院は他の大学からの医師確保も受けられないことを知っているため、この大学との縁も完全に切ることも危険と判断して、受け入れざるを得ませんでした。
 その結果としてかなり割高の遠隔画像診断を押しつけられることも譲歩せざるを得ませんでした。

 

 大学病院スタッフはそれまでかかっていたバイト先の病院への往復の時間を節約できるというメリットがありましたが、大学病院あるいは医局の設立したNPOなどに収益の一部を取られてしまうため、増収にはなりませんでした。

 

 大学が参入したことにより、お墨付を得た「遠隔画像診断」は、世間的に「すきま商売」から「最先端のビジネス」に労せずのし上がったのです。


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